蘇我

蘇我氏邸宅の防御塀か 奈良・明日香村
2010年3月18日 17時27分


甘樫丘東麓遺跡で見つかった塀の柱列跡(画面中央)=18日、奈良県明日香村

 大化の改新のきっかけになった乙巳の変(645年)で滅びた蘇我蝦夷・入鹿親子の邸宅があったとされる奈良県明日香村の甘樫丘東麓遺跡で、7世紀の塀跡が見つかり、奈良文化財研究所が18日、発表した。

 丘の中腹に設置しており、下からの侵入を防ぐための防御施設とみられる。日本書紀によると、蘇我氏の邸宅は「城柵」が巡っていたとされ、同研究所は「塀で区切られた丘の上部に建物跡が存在する可能性が出てきた」としている。

 見つかったのは塀跡の柱穴列で、長さ10メートル以上。太い柱(直径25~30センチ)の間に、くいのような細い柱(直径10~15センチ)が立てられていたらしい。丘のすそから約10メートル高い場所を一部削って平らにして建築。研究所は高さ1メートル以上の板塀か土塀だったと推測している。

 同研究所は甘樫丘東麓遺跡がある谷約6千平方メートルを2005年度から継続して調査。これまでに蘇我邸の一部とみられる7世紀前半―中ごろの倉庫跡や石垣が確認されたが、正殿などの中心施設は見つかっていない。

 現地説明会は20日午前11時から。

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私が住んでいる近くに蘇我という地域(地名)があります。皆さんも良くご存知でしょう。

この地名って、この記事に登場する「蘇我氏」と関係があるのでしょうか。

分かる人には分かるし、面白い人にとっては面白いんでしょうね。

でも、蘇我という地名の由来には大変興味が湧きます。

何と言っても、われよみがえり、ですから。

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